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このところ「台湾有事」など物騒な話が飛び交っています。だからという訳ではないのですが、太平洋戦争の特に海戦記を読んでいます。
きっかけは「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」を読んだことです。
淵田さんは、真珠湾攻撃で第一波の183機の戦闘機を率いた総隊長で、緻密な事前検討や猛烈な訓練でアメリカ太平洋艦隊に大きな打撃を与えました。
淵田さんの本を読んでから、太平洋戦争の戦闘の詳細に関心を持つようになりました。
たとえば、真珠湾は水深が浅いので、通常の方法で飛行機から魚雷を発射すると、魚雷が湾の底に突き刺さって目標の船に向かって進んでいかないのだそうです。それで、淵田隊長らは、飛行機を水面すれすれに飛ばして魚雷が湾底に突き刺さらないように発射する猛練習を行ったそうです。こんなことも初めて知りました。
その後、淵田さんはミッドウェー海戦の時は旗鑑「赤城」に乗船し、真珠湾攻撃と同様、飛行隊長を勤める予定でしたが、戦闘の1週間前に盲腸の手術を受けたので、ミッドウェー海戦当日は甲板に横になっていたのですが、爆弾の破片に当たって、両足を骨折しながらも生還し、その後は海軍の参謀として終戦まで勤めました。
さらに、広島に原爆が落される8月6日の前日まで広島に滞在していたのですが、前日に急きょ本部に呼び戻され、8月6日は広島におらず九死に一生を得た強運の持ち主です。そして戦後はキリスト教に入信し、日米を舞台にしてキリスト教の布教に努めました。
この本は淵田美津雄さんが戦後に書きためていた手記(息子さんが保管していた)が、NHK放送がきっかけになって、出版されたものです。
自叙伝ですから、自分に都合の良いことだけが書かれているような面もありますが、第一級の飛行機乗りの体験談として興味深いものがあります。
そういうことがきっかけで、特に海軍のことを詳しく知りたくなり、「最後の帝国海軍(上下)」「今なぜレイテ海戦か」なども読みました。
さらに推理作家高木彬光さんのSF小説「連合艦隊ついに勝つ」も読みました。
「最後の連合艦隊(レイテ海戦記)」の著者は福田幸弘さんで、福田さんはS19年に海軍経理学校を卒業して、マリアナ沖海戦の数か月前に巡洋艦「羽黒」に文書担当として配属されました。戦闘時には艦橋で戦闘の記録をとることが仕事でした。
マリアナ海戦、レイテ海戦を体験しながら、幸いにも生還し、戦後に自分の記憶をもとに本にまとめたものです。実際にあの戦闘を見聞きした文書担当だった人の記録ですから、読み応えがあります。
元々文学的な素養が高かった人のようですが、プロの作家の作品と思うほどの内容です。
この本には、戦闘詳報だけでなく、その戦闘を指揮した軍人の人間性が描かれていて、ドラマになりそうな話もあります。
真珠湾攻撃を率いた南雲中将はミッドウェー海戦の敗戦の後、その責任をとらされる形で処遇され、最後はサイパンで自決しました。さぞや無念だったことでしょう。
レイテ湾海戦の際、レイテ湾突入を目前にして反転した(突入しなかった)総司令官栗田中将は、戦後「勝負度胸のない指揮官」と酷評されました。しかし批判に一言も弁明せず静かに余生を送ったそうです。
チャーチル首相は戦後の回顧録で「栗田と同様な試練を経験した者だけが、栗田を審判できる」と書いているそうです。
飛行機の援護が全くない状態で、軍艦だけでレイテ湾突入を命じられ、3日間にわたって、米軍からの壮絶な攻撃に耐え続けた状況がどれほど過酷なものであったかは、それを経験したことのない人間には想像できません。
初代の連合艦隊司令長官・山本五十六は、南方基地の訪問情報が米軍に暗号解読され、待ち伏せされてS18年4月に戦死しました。
第2代の連合艦隊司令長官・古賀峰一もS19年3月に南方の基地を訪問中に飛行機事故で戦死しました。
第3代の連合艦隊司令長官は豊田副武ですが、この人も、いわゆるレイテ海戦の数週間前にフィリピン基地を視察に行ったのですが、途中で足止めを食って台湾から動けなくなり、レイテ海戦を目前に控えた重要な時期にも関わらず、日吉の司令部を2週間も空にする不手際を起こしています。
どうも、初代から第3代まで、冴えない人達が司令長官だったわけで、この戦争は初めから日本軍にツキがなかったようです。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」に、日露戦争時の日本海軍司令長官に東郷平八郎が選ばれた理由として「東郷は不思議と運の強い男だから」というのがありますが、上記の3人の連合艦隊司令長官と比べると、妙に暗示的ですね。
太平洋戦争はS16年12月8日の真珠湾攻撃に始まり、約3年後のS19年10月25日のレイテ海戦での敗北によって実質的に終わりました。
レイテ海戦が終了した時点で、連合艦隊は戦前に保有していた艦船の9割を失っていました。フィリピンでの制海権と制空権を失った結果、油(=燃料)を入手できなくなり、これ以上戦争を続けることは実質的に不可能になりました。
軍令部は、レイテ海戦での敗北により、どう頑張っても戦争に勝てないことを理解したはずです。それなのに、原爆投下まで、さらに10か月間も無益な戦争を継続し、多くの国民を無駄死にさせました。
負けがはっきりした後も戦争を長引かせたそもそもの主因は、軍令部に権力が集中する一党独裁体制にあるのは明らかですが、具体的に言えば軍部がメンツに拘って、簡単に降伏する道を選ばなかったからです。
軍部はレイテ海戦から沖縄戦に至るまで、以下のような考えだったそうですが、これは彼らがメンツを保つための言い訳に過ぎません。
ー 敵進攻部隊に痛撃を加え、その企図を放棄させて有利な条件で戦争終結に導くべきである ー
飛行機と軍艦の大半を失った状態で、どうして痛撃を与えられるのでしょう。
「なぜ大敗北したのか」も日本人が皆真剣に考えるべきテーマです。
この理由には日米の国力の差が決定的ですが、これ以外にも多くの要因があり、戦後多くの識者によって指摘されています。
要因の一つとして、合理的な考えを徹底できない日本人の曖昧な思考過程がを指摘する人も多いようです。これは日本人の特性とも呼ぶべきもので、奇妙な精神論やメンツなどの要因が加味されることにより、国家にとって何が重要かの合理的な判断が曖昧になり、その結果、間違った道を突き進むことになるということです。
真珠湾攻撃の後、米軍は飛行機が主役の時代になったことを悟って、戦艦主体の体制から空母主体の体制に即座に移行していきました。これが太平洋戦争中盤以降での米軍の逆転につながって行くわけです。
これに対して海軍の上層部は、大艦巨砲主義から頭を切り替えることができず、レイテ海戦では、日露戦争時の日本海海戦のような戦艦同士の打ち合いで決着をつけるべきという観念論を信奉する人たちが多くいたのですが、栗田長官は現実的に考える人だったため、レイテ湾に突入しなかったのではないかとも言われています。
「最後の連合艦隊」の著者福田幸弘さんは、巻末の「角川文庫収録に際して」で、太平洋戦争を総括して次のように書いています。
ー 太平洋戦争の勃発と敗戦の過程は、日本民族固有の潜在的な特質を顕著に反映していると思われる。特にレイテ海戦はその典型的なパターンを随所に示している。僥倖を信じ、偶然に賭け、大勢に流されて、個性的な主張を軽んじ、慎重にして万全な計画にたった合理的な意見を尊重せず、結局、実質より体面を重んじて花と散る桜花のような精神的な決行主義は結局失敗であった。ー
この結論に異論をはさむ人は少ないと思いますが、あれから70年以上が経過した今日でもこの体質が変わっていないことに気付いて、愕然とする人も少なくないでしょう。
高木彬光さんの「連合艦隊ついに勝つ」は、シミュレーションノベルと称される分野のSF小説で、歴史に「たられば」はないことは分かっていても楽しめる一冊です。
詳細は省きますが、ミッドウェー海戦で、日本側が飛行機の爆弾の入れ替えを行わなかったらどうなっていたか、レイテ湾で栗田艦隊の突入があと数時間早かったらどうなっていたか、など興味あるストーリーが展開されます。ご一読をお勧めします。
最後に重要な戦闘の年譜を記して駄文を終わります。
1941(S16)12-8 真珠湾攻撃
1941(S16)12-10 マレー沖海戦
1942(S17) 6-4 ミッドウェー海戦
1943(S18) 4-18 山本長官戦死
1944(S19) 3-31 古賀長官戦死
1944(S19) 6-19〜20 マリアナ沖海戦
1944(S19) 10-12〜16 台湾沖海戦
1944(S19) 10-20〜26 レイテ海戦
1945(S20) 8-6,9 原爆投下
(2022-10-1)