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編集:大田拓、更新:2022 年 10 月 25 日

帝国海軍の遺産


1.伊藤戦史

太平洋戦争の海戦に関する本を手当たりしだい読んでいますが、遂に伊藤正徳さんの「連合艦隊の最後」に行きつきました。
伊藤正徳さんは戦時中「時事日報」の記者だった方で、海戦全体を俯瞰して書いている点が特徴で、他の戦闘詳報的な本とは一線を画しています。
伊藤さんの戦争に関する見方は「伊藤戦史」とも呼ばれ、卓越した著作が多数あります。
ただし伊藤さんのことは、戦前生まれの人達にとっては常識的なことで、戦後生まれの僕が知らなかっただけのことかもしれません。

また伊藤さんは「連合艦隊の栄光」という本も書いています。
「連合艦隊の最後」では、負けた戦いを主に解説しているのに対して、「連合艦隊の栄光」では負けたけれども良くやったと言われる戦いを書いています。
野球に例えれば、最終的には10対2くらいで日本側が負けたのですが、その内訳は1〜3回まで日本が優勢で、4回から負けが増えていくのですが、しかし一方的な負けではなく、負けても立派に戦ったと後世の日本人が誇りを持てる戦いもあったという内容です。
「連合艦隊の最後」の裏表紙にあるように、この本は太平洋海戦史の決定版でしょう。

太平洋海戦史の中で最も注目を集めた現象は、レイテ湾突入直前の反転です。栗田はなぜ直前で反転したのかに関しては、一般には、この反転の理由を栗田長官の意気地のなさに帰着させた批判が多いようですが、伊藤さんはそういう浅い見方をしていません。 栗田長官は合理的な考えの持ち主で、勝算がない無謀な作戦で、多くの部下や軍艦を犬死させない方を選んだという解釈です。 レイテ突入作戦は、あの陸軍からも無謀すぎるとして賛同を得られなかったとのことです。
戦後になっても色々批判され続けた栗田さん本人はつらかったことでしょう。

2.海軍の技術レベルの高さ

飛行機のゼロ戦の設計者は堀越二郎さんで、開戦当時はアメリカの戦闘機を性能で凌駕していました。
僕は学生時代に、堀越さんの下で計算係を担当したという先生の機械力学の講座を受けたことがあります。
伊藤さんの本を読んで学んだことの一つに、日本は戦闘機だけでなく、造艦技術でも卓越していたということです。
戦前の軍縮会議で欧米との保有トン数の制限を受け入れざるを得なかったのですが、数人の天才的な技術者が、少ないトン数でも互角に戦えるように知恵を絞ったそうです。

戦艦大和は大艦巨砲主義の代表で、戦略的にはまずかったのですが、造艦技術と言う面からは素晴らしいものがあったそうです。 戦艦大和や武蔵と同規模の軍艦は、当時の欧米の技術では造れなかったそうです。
酸素魚雷も欧米が真似できないレベルの製品でした。イギリス軍も酸素魚雷を開発していたのですが、酸素の扱いがデリケートすぎるのでイギリス軍は開発を断面しました。日本の技術者は艱難辛苦の末に開発に成功し、実用に供するレベルに仕上げました。 酸素魚雷は通常の魚雷に比べて、スピードが速く、航続距離が長く、さらに魚雷から排出される酸素が海中に溶けてしまうので、魚雷の航跡が海上から識別できず、防ぎようがないという利点を持っています。
このため日本の魚雷を米軍は非常に恐れていたそうです。ただ日本海軍の上層部は酸素魚雷の利点を十分活かした戦い方をしませんでした。潜水艦を敵の軍艦を攻めるのに使わず、ガダルガナル島やサイパン島の兵士に缶詰を運ぶ仕事に使って、そのプロセスで敵に攻撃されて損耗していったのだそうです。

また「連合艦隊の最後」を読んで「攻勢到達点」という戦争用語を知りました。
これは戦いで攻勢な方がどんどん戦線を拡大していくと、遂には戦線が伸びきってしまって兵糧や武器弾薬が送れなくなり、逆転されるギリギリの位置のことです。
現在、ウクライナのロシア侵攻でもロシア軍がこの点を行き過ぎた結果、ウクライナから反撃されるようになりました。
この攻勢到達点は「凡眼」には見えず、優れた指揮官の「心眼」だけが見えるそうです。

3.日本人の優秀さの根源は

伊藤さんの「連合艦隊の栄光」に出ている駆逐艦「雪風」の話は、日本人として知っておいた方がよいと考えています。
排水量2500トン乗員約265名のこの軍艦は、太平洋戦争のほぼすべての海戦に積極的に参加したにも関わらず、最後までほぼ無傷に近い形(かすり傷程度)で生き残りました。全戦闘を通じた乗員の負傷者は10名以下で、死者は2名だけでした。
これほどの好成績を収めた軍艦は連合艦隊の中で雪風のみだったそうで、「最幸運艦」として知られました。伊藤さんの調査では、これ以上の幸運な軍艦は欧米にも見られないそうで、戦後に米軍からも「Best Ship」と敬意を込めて称されたそうです。雪風の艦長は4代に及びましたが、艦長に就任する前から、何らかの幸運の持ち主だったそうです。

酸素魚雷16本を搭載しながら、船のスピードも非常に高速(米軍の発射する魚雷よりも早い)でした。こういう優れた軍艦を造った当時の技術陣が素晴らしかったのでしょう。
また魚雷には、正確に進むように様々な調整が要るのですが、通常は3日に一度行うこの調整を、雪風の乗員は毎日欠かさなかったそうです。
こういう話を聞くと、雪風の乗員の機械に対する特別な思い(愛着)は、戦後の日本人のものづくりに対する思い(執着心)と共通する何かを想起させてくれます。

日露戦争では欧米から購入した軍艦を使っていました。日露戦争から太平洋戦争までは約40年ですが、この短期間にゼロ戦、戦艦大和、酸素魚雷などの優れた工業製品を自らの知恵で生み出した日本人の優秀さの根源はどこにあるのでしょうか。
日本人の身体にはなにか特別なものが流れているのでしょうか。
日本人が特別優秀なDNAの持ち主だと主張する根拠は見当たりません。
僕は多少こじつけ的ですが、次のように考えています。
つまり、徳川300年間の身分制度によって(大半の日本人は苦しい生活を強いられた)、武士階級だけが特権階級として生産活動から解放され、知識階級として勉学や武芸に励むことが可能になりました。そして彼らの知恵と努力によって、欧米の列強に蝕まれることなく、アジアの他民族よりも早く近代国家の形成に成功しました。
こういう歴史的な経緯を経て、学問や技術を重んじる社会が形成されていき、さらに科学技術を重んじるイギリス流の考えを輸入して構築された海軍の風土が根付いて日本人の体質として残り、その後のものづくりや科学技術の発展に結びついたのではないかということです。

ただしゼロ戦や酸素魚雷や雪風のような話は海軍の話で、陸軍ではそういう話は聞きません。
司馬遼太郎によると、陸軍は日露戦争当時に使っていた鉄砲を太平洋戦争でも使っていたようです。
なお、伊藤さんは「帝国陸軍の最後」で、日本を無謀な戦争に主導したのは軍閥であり、それを許したのは、政治家の劣化が主因と断定しています。
政治家の劣化は僕たちが今、日常的に目撃しているところですが、これから先、日本は大丈夫かなと言う気がしています。
(2022-10-25)



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